
Velazquezさんのコメントがあったので、トミーの足タップの話を少し・・・
えー、私がこれから書くことは、アコギの世界の方、というか、リズム感のよい方が聞いたら、何を間の抜けたことをと思う・・・・あるいは、当たり前すぎて、何が問題になっているのかさえ理解されないかもしれません。しかし、私のリズム感は、大雑把に言って「文部省唱歌に出てくる以外のリズムは、複雑なリズムに分類される」レベルですので、本人はいたって大真面目です。
トミーの曲を弾くにあたって何が難しいといって、指が速く動かない、押さえられない、音が鳴らない、等々のいわゆるテクニカルな問題以前に、リズムがわからない、ということがあります。ぼんやりとCDを聞いているときは、ただ、「ああ、かっこいいなあ」と思っていたフレーズが、いざ自分のギターで鳴らしてみようと思うと、どうもわからない。タブや五線譜に採譜されたものを見ても、なんとも腑に落ちない。今まで拍の頭だと思っていた音が、どうやら違うらしい。「いち、にい、さん、しい・・・あらららら」という感じです。これでは、トミーの言うように拍を足でタップするなんて絶対できません。そこで、仕方なく、メトロノームを頼りにリズムの解析作業に入ります。膨大な時間をかけて、悪戦苦闘をしていると、少しずつわかってきます。これはもう、理屈だけでも、あるいは感覚だけに頼ってもだめで、私の場合、両者をすり合わせながら、だんだん本質的な理解に迫るというアプローチが必要です。
このリズムが根本的にわからない、というのは、かれこれ35年もギターを弾いている人間にとっては、かなり屈辱的な状態なのです。しかし、ここでやけを起こさずにがんばっていると、まず最初におこることは、今まで理解していたフレーズがぜんぜん違った聞こえ方をしてくることです。「ココデハキモノヲヌイデクダサイ」が、「ここでは着物を脱いでください」から「ここで履物を脱いでください」に変化するようなものです。こうして、新しいフレーズ理解が成立すると、トミーの言うようにタップできるようになってきます。そうして、足でタップしながら弾いていると、今まで、ただ漠然と、かっこいいなあ、と思っていたトミーのつけるアクセントや、ニュアンスが、「ああ、こういう理屈だったんだ」と体で理解できるようになります。トミーの曲には、コード進行をベースラインが半拍くらい先取りしてすすんで行くパターンがよく出てくるのですけれど、これが、実に気持ちよく「わかる」ようになります。まだ前のコードがなっているうちに、バスが拍を食って入ってくる、するとそのコードの構成音が本来の拍の頭でアルペジオ風につついてきて、さらにそれをアトノリのメロディーが追いかける・・・。このズレが、なんともいえないドライブ感を生み出しているんですね。言葉で書くとややこしいですけれど。
もちろん、「わかる」ことと、 それを音にすることは、まったく別のことなので、すぐに上手に弾けるようにはなりません。でも、少なくとも、リズムがわからないという根本的問題を、テクニックの次元に昇華したわけで、後はひたすら指を動かすのみ。反復練習を汝の友とすべし、というわけです。
YouTube には、トミーの曲のカヴァーがたくさんアップされていますけれど、履物が着物になってしまっている演奏も多いです。これは、バロックをロマン派風に弾いているとか、ノリが良いとか悪いとか、解釈なり、センスなりの範疇の問題ではなくて、根本的な(クラシック風に言えば)譜読みの問題です。ソロだから起こるエラーで、これがバンドのリズムギターだったら、ありえないことです。
と、特大の大口をたたいた後なので、かなり恥ずかしいですが、以前にアップした、私のアンジェリーナです。良かったら、お耳汚しに聴いてみてください。

ちょっと古本屋の話にはお休みをいただきまして、たまにはギターの話など・・・・
といっても、たいしたことではありません。愚痴の類です。8弦のヴァイスは、難しくてさっぱり進みません。やや凹み気味なので、気分転換をかねて、少しタイプの違った曲も平行してやることにしました。そこで、選んだのがトミー・エマニュエルのアルバム、オンリーから、ドライブ・タイムです。
あー、やめときゃよかった。けっきょく、さらに凹みました。まあ、あきらめずに、気長にやるしかないですね。
ところで、私のギター・ヒーローといっても過言ではないトミーが、教則DVDを出しています。教則・・・といっても、いわゆる堅苦しい教則ものではなくて、トミーがギターを弾きながら、最近のアルバムの収録曲について、いろいろとコメントをするという趣向です。コンサートを収録したDVDもすばらしいけれど、こちらのほうが、何気なくおしゃべりをしながら気楽に弾いている分だけ、トミーのすごさが際立ちます。おそらく、まったくの一発録りと思われますが、ミスなどというものは、一切ありません。まるで、魔法を見るようです。まあ、彼の演奏について、ミスだとかなんだとかいう話をすること自体がナンセンスなんですが。
このDVDの中から(いや、この中からじゃないかもしれないけれど)トミーのギター上達のためのアドバイスを二つご紹介します。
1.最初はゆっくりと、すべてのの音を完全に弾けるように、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返し練習すること。
あはは・・・・やっぱりね。すべては、これに尽きるのですね。Make repetition your friend! と彼は言います。
2.足で正確にリズムをタップしながら弾く技術を身に付けること。
ふつう、クラシックの人は、こういうことはやりませんよね。でも、トミーの曲を弾いてみれば、これがどういう意味かは、すぐわかります。これについては、またそのうちに詳しく書こうかな・・・。

というわけで、なごりを惜しみつつも、牛たちに別れを告げて、テムズ川沿いの小道を、ぼちぼちと帰途についたのでした。
ところで、この週末は、珍しく、町のアートホールでギターのコンサートがあったので、聴きにいってきました。リチャード・デュランという初めて聴くギタリストです。 いわゆるクラシックのコンサートではありませんので、場合によっては、かなり私の趣味から外れたものを聴かされる可能性もあるかなあと、ある程度覚悟を決めてゆきましたが、それが、けっこう楽しめました。前半が、バッハ、バリオス、タレガ、ウォルトン。後半の目玉が、ライヒのエレクトリック・カウンターポイントと自作品という構成でした。 特に、ライヒの実演を聞く機会がなかなかありませんので、収穫だったと思います。自分の演奏の多重録音にエレアコの実演を重ねながら、ビデオクリップ を流すという凝った演出でした。
リチャード・デュランのHPは、こちら。
彼の使う ギャリー・ハーンギターのサイトはこちら。ラティス式の表板を使ったモデルがちょっと面白いです。それにしても、6000ポンドでは、ポール・フィッシャーより高いですねえ。

さて、このFマイナのソナタには市販の6弦ギター用の編曲譜があります。Weiss, Two Suites for Solo Guitar, Transcribed and Edited by Gilbert Biberian, Edition Peters, No.7336です。これをそのまま弾いたのでは8弦ギターを使う意味がありませんから、キエザ編のロンドン写本の現代記譜版を横目で眺めながら、このピータース版を8弦用に直してゆきます。
普通、私たちがヴァイスの曲をギターに編む場合、基本的にやることは二つ。ギターで弾きやすい調に移調することと、低すぎてギターの音域からはずれたバスをオクターブ上げてやることです。もちろん、弾けないところだけ動かしたのでは、バスラインが凸凹してしまいますから、音楽的に無理のないように選んだ一塊を、丸ごとあげてやる必要があります。このときに、オクターブ上がったバスと上声、内声部が十分離れていれば良いのですけれど、あいにく音域的に接近あるいは、重なっている場合は、そのまま弾いたのでは、各パートが何を弾いているのかわからないし、ハーモニーのバランスも悪くなってしまいますから、仕方なくメロディーも含めた全体をオクターブ上げる羽目になります。この場合も、出来るだけ不自然にならないように、つなぎ目を慎重に選択するわけですが、ともすれば、テナーが突然ソプラノに声変わりしたような奇妙な事態を引き起こすことも、ままあります。それでも、まあ、物理的に弾ければ良いのであって、どうにもこうにもならない場合は、最後の手段。あきらめて別の曲を弾く、という作戦を適用せざるを得なくなります。
専門家の立場から見れば、その他にも、タブラチュアを現代記譜に解釈する問題やら、自由度を持って指定されているオーナメンテーションをどこまで、明示的に書くのかといったような、いろいろなことがあるのでしょうけれど、私などのレベルの場合は、バルトやホピーやカルダンや今村のCDを耳コピーして、なんとなくこんな感じかしら、というのが現実です。
で、このピータース版ですが、この手の編曲譜の中では、脚注や変更箇所の記載などは、比較的しっかりしているほうですが、それでも、何の断りも無くごまかしてある部分も散見されて、完全に安心できる譜面ではありません。写真は、第二曲のクーラントの「なんの断りも無く」変更された部分です。こういうところは、オリジナルどおりに書き直しておきます。結構、手間のかかる作業です。

練習してますが、苦戦しています。なんと言っても、弦が多いです。このギターを手に入れた当初の計画では、調弦は上からAEBGDAEA。つまり、通常の6弦を上と下から二本のA線ではさむ予定だったのですが、このアイデアは一曲録音しただけで却下されました。どうしても、通常のギターの音に慣れた耳には、細い高音側A線の音がやせて貧弱に聞こえますし、それよりも何よりも、6弦ギターとの持ち替えが難しくて、8弦しか弾けなくなってしまうのに閉口したというのが、頓挫の主な理由です。それなりのメリットは十分にあったので、ちょっと残念ではあるのですけれど。
今は、上からEBGDAEDAとしてあります。なんだか、中途半端なチューニングですが、これでバロックリュートの最低音のAまで届きますし、EDAが開放弦なのは、ホ短調の曲の演奏にはとっても便利です。というわけで、今回のお題は、ヴァイスの組曲から、スミス・クローフォードの番号で21番。ロンドン写本の番号で言えば、121から131のFマイナの組曲をEマイナに移したものです。この曲を選んだのは、好きな曲だからというのはもちろんのことですが、もうひとつには、デイビッド・タネンバウムの6弦ギターによるとても良い録音があるからなんです。8弦で一工夫すれば、どんな風になるかなあ、と思うのですが、何とか形にするのには、いましばらくかかりそうです。

ようやくのことで、昨年の夏ころから手がけていた曲をアップしました。いや、情けない。多忙というよりは、心に音楽をする余裕がないんですね。曲の詳細は、いつものように宅録日記に。
どうも、今年の目標は、何を弾くとかいうよりは、ギターをやめないことかな・・・。それでも、毎日練習してます。

この週末は、オックスフォードから北へ、車を走らせること4時間(約450キロ)ほど、北イングランドの街、ニューカッスルで、トミー・エマニュエルのコンサートを聴いてきました。ちょうど一年程前、プラハで聞き逃して以来、念願の生トミーです。写真は、会場の The Journal Tyne Theater という劇場です。
トミー・エマニュエルについては、いまさら、ああだ、こうだ、と書くこと自体がばかばかしく思えるほどです。このあたりのことは、アンジェリーナを録音したときの宅録日記に、ばかばかしくも、少し書いておきました。
パコ・デ・ルシアの演奏を間近に聞いたときは、「魔物がギターを弾いている」という印象を受けたものですが、トミーには、そんな特別なオーラのようなものは一切ありませんでした。ただのおっさんが、機嫌よさそうにギターを抱えてステージに現れて、鼻歌交じりに、機嫌よくギターを弾いて帰っていった・・・思い出してみれば、ただそれだけのことでした。ただ、ほんの少しだけ、今回の体験が、今まで聞いたどんなプレイヤーの演奏とも違っていたのは、彼のギターから出てきた音の一つ一つが、ただもう、奇跡としか言いようのなかったことです。
ありえないものを見た、そして聴いた、週末でありました。

確率の話はほどほどにして、今日は、新録音アップのご連絡です。
「芸の幅を広げる」シリーズの本命は、次回の予定ですので、今回はちょっと、お茶を濁した感がありますが、といって、それほどやさしい曲でもありませんでした。ハーモニクスがねえ・・・・鳴らしきれないんですよねえ。
詳細は、宅録日記に。
写真は、小樽の水族館でお目にかかったカメ君です。

こういう風に書くと、なんだか意味不明になってしまうかも知れませんが、下の記事で、カタロニアの録音が自分の青春の総括だ、などと書いているうちに、ふと思いました。私は西洋音楽の基本ルールをきっちり勉強して、素人が聞いても、玄人が聞いても、良い演奏をしたい。自分は、そう思っているのだと、自分で信じているようなところがありましたが、本当は、ちょっと違うのかもしれません。
ギターを弾くことは、自分にとって、常に何か、内面的で非常にシンボリックな意味があるように思います。逆にいえば、そういう意味を見出せないと、曲を弾く気にならない。カタロニアについて言えば、あの学生時代のアパートで山下のLPを聴きながらすごしたころの自分を、ある意味では音楽に投射しているわけです。それは、第一変奏のこの音が、あのころのこういう思い出の比喩になっているというような、直喩的な投射ではなくて、古い楽譜を引っ張り出してきて、毎日毎日練習して、最後に録音するという作業全体が、何かの抽象的な隠喩になっている、というような意味です。
自分は音楽をやっているような顔をして、本当は似て非なることをしているんじゃあないかなあと、ふと、思ったということです。以前からも、そういう、不思議な疑問がふつふつとわあきあがってくることは、時々、あったのですけれど。
たとえば、あるところに町外れの観音様までジョギングするのを日課にしている人がいる。彼の走る姿を見て、近所の人は、てっきり熱心な市民ランナーだと思っている。ところが、その観音様は万病平癒の霊験あらたかなことで有名で、彼は自分の父親のがんが治りますようにと、毎日願をかけに行っていたのだった・・・というような。
どうも、人間のすることには、他人からはっきりと見える表面的な行為そのものの背後に、何か、もっと重要な真の意味の隠れていることが多いように感じます。それを、当の本人が自覚しているかどうかは別として。
写真は、私が勝手に「ギタリストの手」と名前をつけた近所の広場の木です。 指先からオーラを放って、今にも強烈なラスゲアードを繰り出しそうでしょう。

常連の皆様は、ああ、またトミー・エマニュエルでも録音したのかな、とお思いかもしれませんが、今日は、なんと、本命のデュアルテのカタロニア民謡による変奏曲です。 金曜の夜は、週末の録音に備えて、お酒も控え、早めに寝て、英気を養っておこう、などと思っていたのに、ふと、TVガイドを見ると、11時半からハリウッド版のリングをやるとある。日本版より100倍怖いと聞くハリウッド版、大のホラーファンの私としては、これは見落とせないと、あっさり誘惑に負けてギネスのグラスを片手に、よもやの夜更かし。深夜のホラー映画のあとに、そうそう、あっさり眠れるわけもなく、寝ぼけ眼(まなこ)の録音作業と相成りました。まあ、多少寝ぼけているくらいが、適度に脱力できて良いのですけれど。
というわけで、詳細は、いつものように宅録日記に。
それにしても、あんまり怖くなかったなあ、ハリウッド版のリング・・・・。