コンピュテーショナル・ケミストリ
突然また、おかしな話で恐縮ですが、私は、ずいぶん長いあいだ、有機合成化学というものを職業にしてきました。いや、職業は会社員で、有機合成化学というのは専門分野というべきでしょうか。うーん、自分としては、化学が職業という感覚なのです。これは、会社と専門と、どちらへの帰属意識が重いかという問題ですね。まあ、それはさておき、有機合成化学者というのは、要するに、いろいろな薬品をフラスコの中で混ぜ合わせて、新しい物質を合成するのを生業としている人のことです。実験室で白衣を着て試験管を振っている。ああいうイメージですね。
何を合成するかというと、それは、所属する組織の都合で決まります。大学を出てすぐのころは、ペンキや接着剤への添加物なんかを作っていました。イギリスの会社に移ってからは、医薬品ないしはその原料です。合成屋にとっては、作る対象などというのは、所詮はどうでも良いのであって、まあ、よっぽど臭いとか、猛毒だとか、爆発して危険だというようなものでもない限り、けっこう機嫌よく作れるものです。
私は、これが自分の天職のように思っていたのですが、長く仕事をしていると、少しずつ立場というものが変わってくるもので、10年くらい前からは、自分で実験台に向かう事はほとんどなくなり、若い皆さんにお願いして、仕事をしていただくようになってきました。そうなると、私の仕事は、何を、どう作るのかを決めることです。薬(というよりは、新薬候補なんですが)を作っているわけですから、病気に効くものを作らなきゃあいけません。だから、どういういうものが良く効くのかを考えなくてはいけない。もちろん、薬といったって、万病に効く薬とか、馬鹿につける薬を開発しているわけではありませんので、はっきりとした疾病ターゲットがあります。それも、ただ、ガンだとか、高血圧だとかいった狙い方ではなくて、ガンであれば、正常細胞がガン化したり、ガンが増殖したりするメカニズムを良く調べた上で、そのメカニズムの流れの一点を、薬という異物でピンポイントに狙ってゆきます。そういうわけですから、ぼんやり考えていたって、良い考えの浮かぶわけもなく、いろいろ工夫をしなければなりません。
どういう工夫かというと、コンピュータを使って、薬と人間の身体の相互作用をシミュレーションするのです。人間の身体といったって、今の科学のレベルとコンピュータの処理能力では、人間全体をコンピュータの中にモデルとして構築するなどということは、もちろん出来ません。では、胃とか、肝臓とか、臓器一つくらいなら出来るかというと、これも出来ません。実際のところ、細胞一つの挙動のシミュレーションだって、現状では、夢のまた夢です。では、何ができるのかというと、酵素とか、各種の受容体とか、要するに、分子量数万くらいまでの、タンパク質一つくらいなら、いろいろと問題はあるにせよ、何とか現実的な3次元モデルを組み立てることが出来ます。というわけで、最近の私は、日がな一日、創薬ターゲットのたんぱく質のモデルに、いろいろな物質、つまり新薬候補をはめ込んでみては、うまくはまるの、はまらないのと、思案を繰り返しています。現実の実験室からは、ほぼ完全に離れてしまって、バーチャル・リアリティーの中に、一人生きているわけです。私は、自分でもなんだかよくわからないうちに、コンピュテーショナル・ケミスト(計算機化学者)というものになってしまったようなのです。
そのたんぱく質のモデルの世界というのは、たとえば、(この例は、もちろん、会社の仕事ではなくて、パブリック・ドメインからとってきたものですが)図のようなものです。ぐにゃぐにゃしたスポンジのようなものがHIVプロテアーゼという酵素で、緑で描かれているのが薬の分子です。エイズのウイルスが人間の免疫細胞に感染して増殖するには、この酵素の働きが必須です。そういうわけで、この酵素の働きを止める作用のある物質は、エイズの薬になるのです。こういうモデルを作っては、タテヨコナナメに動かしてみたり、相互作用のエネルギーを計算してみたり、ああでもない、こうでもないと弱い頭をひねっては、何かのはずみで良いアイデアの浮かぶことに、一縷の望みを託すのであります。
ところで、酵素(たんぱく質)はどうして、こんなにぐにゃぐにゃした、おかしな形をしているのだろうと思った方は、いらっしゃるでしょうか。学校で習った、元素記号を線でつないだ分子の表記とぜんぜん違うと。じつは、分子の形とか、大きさをグラフィックに表現するのは、けっこうややこしいことなんです。次は、そのあたりのことを書いてみようかなあ、と思いますが、さて、そんな根気があるかどうか。
久々に、訪問させていただきました・・・・と言っても、5年前、一度だけご連絡をさせていただきました、
食道癌患者です。術後、幾度か、訪問させていただいた折、アクセス不可になっていましたので、
もう、HP更新をおやめになったのかと勝手に思い込み、今日まで過ぎてしまいました。
”のどの下の胃袋”・・・・続けていただいていて、よかった・・・・。
また、お邪魔します。
Comment by vmax — 20/08/2008 @ 04:24 pm
vmaxさん、こんにちは。
ちょっとvmaxというハンドルネームが、記憶にないのですが、以前も同じハンドルをお使いだったでしょうか?
いづれにせよ、五年前ということであれば、その後、順調に回復、完治されたことと推察いたします。
情けないことに、食道がんのコンテンツは、まったく更新も出来ず、開店休業状態です。
それでも、日々、新たに食道がんを宣告される方は(残念ながら)後を絶たないわけですから、私の闘病記も、まだ、何かしらの役に立つものと思い、しつこく残してあります。
Comment by 蚊帳吊りウサギ — 20/08/2008 @ 08:44 pm
蚊帳吊りウサギさん、こんばんは。お久しぶりです。
今朝の朝日新聞の「ひと」のコーナーで、ファイザーから閉鎖された日本の研究所を新会社で再出発させた長久厚さんが紹介されていました。あ、これ以前蚊帳吊りさんがブログで書いていた…と思って興味深く読みました。今年6月末の閉鎖期限の直前に資金が20億円足りないことを所員伝えると「自分の貯金をつかってほしい」という申し出が合いついで、その手紙を持って投資会社と再交渉して資金を確保したとのこと。壮絶な企業運営やマネーゲームの中でも、真に情熱のある人たちには何かがあるものだと感じ入りました。
蚊帳吊りウサギさんが携わっている薬~有機合成化学の世界って面白いですね。この1年くらい遺伝子や細胞、タンパク質のことが面白くって、いろいろ読んでいます。私なんぞが読むというのはもちろん専門誌ではなく、ブルーバックスやNEWTONくらいなのですが、それでも最近の本はグラフィカルでわかりやすく、タンパク質なんかが化学的性質だけでなくその形状に大きな意味があるとなど驚くことがいっぱいです。そのようなタンパク質のグラフィカルイメージをつくったり、その形状をながめ、化学的な計算をして・・・というコンピュテーショナル・ケミストって大変そうですが面白そうな仕事ですね。このシリーズの話題も楽しく読ませていただいていますので時間があればまた続編を。
演奏の方ももちろん聞かせていただいています。感想を書くタイミングを逸してしまっていてすみません。
カタロニア民謡の・・・もスケールの大きな素晴らしい演奏だと感心していました。実は私、不勉強でこの曲知らなかったんです。山下さんのLP/CD探しましたが廃盤のようでした。なので、この曲は蚊帳吊りさんの演奏が今のところ私にとっては唯一の演奏なんです。へへへ。
今日は突然でしたが、今朝の新聞を読んでちょっと書きたくなりました。
ではまた、お仕事もギターもますますのご活躍を期待しています。
Comment by akaayu — 28/08/2008 @ 04:47 pm
akaayuさん、しばらくでした。
コメントをありがとうございます。創薬の世界というのは、本当に面白いですね。これほど広範なサイエンスを必要とする業種を私は知りません。医学、薬学、生物学、物理学、化学は言うに及ばず、数学、統計学、特許の専門家まで必要になります。その上、小さなバイオテクでは、投資家から資金を引っ張ってくる金融のプロの存在が生命線になります。これだけの総合力が必要となると、多様な人材・資金の確保の容易さという点で、アメリカが圧倒的に強いのも、よくうなずけます。日本は、基礎科学の点では及第ですけれど、もう少し人と金がダイナミックに動くようにならないと、創薬バイオテクは育ってこないでしょうねえ。私としては、それでは困るんですけれど。いつまでたっても、日本に帰れませんから。
カタロニア、聞いてくださってありがとうございます。確かに、この曲の録音は少ないですね。演奏家の個性の良く現れる曲だと思うので、ぜひ、いろいろな人の演奏を聞いてみたいのですけれど。
Comment by 蚊帳吊りウサギ — 28/08/2008 @ 08:21 pm
はじめまして。
私は横浜に住み、
クラシックギターを演奏している者です。
「続・のどの下の胃ぶくろ」ギター演奏技術についての、
非常に見識豊かな論文を拝読させていただき、
深く感銘を受けました。
まだ、すべての内容を熟読できておりませんが、
プリントアウトさせていただいて精読し、
自らの演奏技術向上のため、
練習に取り入れさせていただこうと考えております。
また、闘病についての文章も拝読させていただきました。
筆舌にできない苦しみをつねに乗り越え、
前向きに歩まれている姿に、
さらに感服致しました。
尊敬できる方です。
今後も時折立ち寄らせていただきたいと思います。
突然お邪魔しまして失礼致しました。
また、たいへんありがとうございました。
Comment by amano — 02/10/2008 @ 04:52 am
amanoさん、はじめまして。
もったいないくらいのコメントを、ありがとうございます。
メカニック研究には、まだまだ書きたいことや、調べたいことがたくさんあるのですが、最近は、なかなかまとまった時間を作って、勉強する余裕がありません。ギターそのものは以前とほとんど変わりないペースで弾いていますが、周辺のことをする時間がないんですね。がんに関するコンテンツについても、しかりです。
今後とも、よろしくお願いします。
Comment by 蚊帳吊りウサギ — 02/10/2008 @ 09:03 pm