Kayatsuri Blog

23/06/2008

リチュアル

Filed under: 日々のこと, 音楽・ギター — 蚊帳吊りウサギ @ 09:47 pm

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こういう風に書くと、なんだか意味不明になってしまうかも知れませんが、下の記事で、カタロニアの録音が自分の青春の総括だ、などと書いているうちに、ふと思いました。私は西洋音楽の基本ルールをきっちり勉強して、素人が聞いても、玄人が聞いても、良い演奏をしたい。自分は、そう思っているのだと、自分で信じているようなところがありましたが、本当は、ちょっと違うのかもしれません。

ギターを弾くことは、自分にとって、常に何か、内面的で非常にシンボリックな意味があるように思います。逆にいえば、そういう意味を見出せないと、曲を弾く気にならない。カタロニアについて言えば、あの学生時代のアパートで山下のLPを聴きながらすごしたころの自分を、ある意味では音楽に投射しているわけです。それは、第一変奏のこの音が、あのころのこういう思い出の比喩になっているというような、直喩的な投射ではなくて、古い楽譜を引っ張り出してきて、毎日毎日練習して、最後に録音するという作業全体が、何かの抽象的な隠喩になっている、というような意味です。

自分は音楽をやっているような顔をして、本当は似て非なることをしているんじゃあないかなあと、ふと、思ったということです。以前からも、そういう、不思議な疑問がふつふつとわあきあがってくることは、時々、あったのですけれど。

たとえば、あるところに町外れの観音様までジョギングするのを日課にしている人がいる。彼の走る姿を見て、近所の人は、てっきり熱心な市民ランナーだと思っている。ところが、その観音様は万病平癒の霊験あらたかなことで有名で、彼は自分の父親のがんが治りますようにと、毎日願をかけに行っていたのだった・・・というような。

どうも、人間のすることには、他人からはっきりと見える表面的な行為そのものの背後に、何か、もっと重要な真の意味の隠れていることが多いように感じます。それを、当の本人が自覚しているかどうかは別として。

写真は、私が勝手に「ギタリストの手」と名前をつけた近所の広場の木です。 指先からオーラを放って、今にも強烈なラスゲアードを繰り出しそうでしょう。

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